洋画を見ていると、「何?!このイケオジ?!」っていう渋いオッサンが沢山でてくる。
そんなアメリカンニューシネマ時代の名優をまとめてゆく。
目次
アメリカン・ニューシネマとは、1960年代後半から1970年代半ばにかけてアメリカでベトナム戦争に邁進する政治に対する、特に戦争に兵士として送られる若者層を中心とした反体制的な人間の心情を綴った映画作品群、およびその反戦ムーブメントである。
アメリカ本国(および英語圏)で「New Hollywood」「The Hollywood Renaissance」「American New Wave」と名付けられた映画のムーブメントである。日本でのみこれが「アメリカン・ニューシネマ」と題され、当時の日本で紹介されたものである。代表作品には『俺たちに明日はない』『イージー・ライダー』などがある。
ニューヨークを中心とした芸術潮流である「New American Cinema」とは別物。
引用元:ja.wikipedia.org(引用元へはこちらから)
1960年代の末から70年代の初めにかけて、アメリカン・ニューシネマと称される一群の映画が作られた。もっとも、アメリカン・ニューシネマというのは和製英語で、本場のアメリカではニュー・ハリウッド映画と呼ばれている。フランスのヌーヴェルヴァーグを思わせるが、直接の関係はない。この運動に影響を与えているのは、ベトナム戦争である。ベトナム戦争によって、アメリカの良心が傷ついたと感じる人々が、同時代のアメリカへの批判意識を込めて作った映画というのが、アメリカン・ニューシネマの定義といえようか。
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アメリカン・ニューシネマの先駆的作品と見なされている「俺たちに明日はない」は、明確な思想性は感じさせず、単に体制への反抗を描いた作品だが、そういう反体制的なところが、以後アメリカン・ニューシネマの共通項になっていった。アメリカン・ニューシネマの傑作といわれる「イージー・ライダー」は、アメリア社会の病理的な側面を強烈に批判したものだし、「カッコーの巣の上で」は、体制に順応しない人間を、精神障害者として抹殺する社会の不気味さを批判した。「ダーティ・ハリー」は、一見すると単なるアクション映画に見えるが、これもアメリカの司法のあり方を痛烈に批判する要素を持っている。
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1967年ころから登場し始めた新しいアメリカ映画をいうが,明確な定義はない。 A.ペンの『俺たちに明日はない』 (1967年) が公開されたとき,ジャーナリズムが「ニュー・シネマ」と呼んだのが始まりで,以降,その呼び名は,従来のハリウッド方式に逆らう一群の作品を指す総称となる。ほかに M.ニコルスの『卒業』 (67年) ,D.ホッパーの『イージー・ライダー』 (69年) ,J. R.ヒルの『明日に向かって撃て!』 (69年) ,S.ペキンパーの『ワイルド・パンチ』 (69年) など。 60年代は,映画を取り巻く内外の状況が急変していった時代で,社会がベトナム戦争や公民権運動に揺れ動き,若者が既成の価値観に反発を強め,映画界では旧来のシステムが解体しかけていた。この背景の下,「ニュー・シネマ」が誕生したのである。反体制的な価値観や自由な話法,ロケーション中心主義などがそれらの特徴で,それまでにない斬新な表現は,アメリカ映画に新風を吹き込んだが,本質的にこれらの作品もまた,ハリウッド映画以外の何物でもなかった。ハリウッドは「ニュー・シネマ」が興行的に成功すると,そういう表現方法をも自己組織化し,さらに成長していくのである。この呼称は,日本ではよく使われるが,発祥地のアメリカではすでに死語に近いといえよう。
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ダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman、1937年8月8日 – )は、アメリカ合衆国の俳優。身長167cm。『クレイマー、クレイマー』(1979年)と『レインマン』(1988年)でアカデミー主演男優賞を受賞した。
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米・ロサンゼルス出身。大学時代に演劇に目覚め、ジーン・ハックマンとともにパサデナ・プレイハウスの演目に参加する。その後、ともにニューヨークへ引越し、アクターズ・スタジオで演技を学ぶ。オフブロードウェイでの活躍が映画監督マイク・ニコルズの目に留まり、「卒業」(67)に抜擢。瞬く間に観客の心をつかみ、映画出演2作目にしてアカデミー主演男優賞にノミネートされた。その後は、オスカー候補になった「真夜中のカーボーイ」(69)、「レニー・ブルース」(74)をはじめ、卓越した演技で数多くの作品に出演する。79年の「クレイマー、クレイマー」でオスカーを勝ち取り、「レインマン」(88)で2度目の受賞を果たした。「トッツィー」(82)、「ウワサの真相 ワグ・ザ・ドッグ」(97)でもノミネートされている。近年は、「ミート・ザ・ペアレンツ」シリーズ(04、10)、「主人公は僕だった」(06)のほか、ドリームワークスのアニメ「カンフー・パンダ」シリーズ(08~)に声優として参加している。
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ダスティン・ホフマン – フレンチトーストを作っているだけなのに…泣ける | クレイマー、クレイマー | Netflix Japan
1979年公開の名作映画『クレイマー、クレイマー』。 シングルファーザーのテッド(ダスティン・ホフマン)が、息子と生活をし ...
コンサート・ピアニストになるのが夢で音楽を専攻していたが、カレッジで舞台に立ったのがきっかけでパサディナ・プレイハウスで本格的に演技の勉強を始める。カレッジ卒業後ニューヨークへ行き、アクターズ・スタジオに通いながら様々な職業を体験。1961年ブロードウェイにデビューし5年間売れない生活をした後、’65年「Harry,Noon and Night」で注目され、’66年「Journey of the Fifth Horse」でオビー賞を受賞。’67年「Tiger Makes Out」の端役で映画デビュー。同年マイク・ニコルズに認められて「卒業」の主人公ベンジャミンに起用され、同作品でアカデミー賞主演男優賞にノミネート、ゴールデン・グローブ賞新人賞に選ばれる。第2作目の「真夜中のカーボーイ」(’69年)でもアカデミー賞主演男優賞にノミネートされ人気を決定的にした。その後も数々の話題作に主演し、超一流の演技派ぶりを発揮。’75年にはブロードウェイで演出を手掛けて成功している。’79年「クレイマー、クレイマー」で念願のアカデミー賞主演男優賞を受賞。’88年にも「レインマン」で自閉症の患者を好演し2度目のアカデミー賞を受賞。他の主な出演作品に「ジョンとメリー」(’69年)、「小さな巨人」(’70年)、「わらの犬」(’71年)、「アルフレード・アルフレード」(’72年)、「パピヨン」(’73年)、「レニー・ブルース」(’74年)、「大統領の陰謀」「マラソンマン」(’76年)、「トッツィー」(’82年)、「フック」(’91年)、「ビリー・バスゲイト」(’92年)、「アウトブレイク」(’95年)、「マッド・シティ」(’97年)、「ニューオーリンズ・トライアル」(2003年)、「ミート・ザ・フォッカーズ」(2004年)、「カンフー・パンダ」(声の出演,2008年)などがある。1984年「セールスマンの死」で舞台にも復帰し、同作のテレビ版(’85年)でエミー賞受賞。2013年「カルテット!人生のオペラハウス」で監督デビュー。1983年初来日の際には米国による原爆投下を謝罪するなど、社会派として知られる。
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職業・肩書俳優
国籍米国
生年月日1937年8月8日
出生地カリフォルニア州ロサンゼルス
本名Hoffman,Dustin Lee
学歴ロサンゼルス音楽院卒,サンタ・モニカ・カレッジ〔1958年〕卒
受賞アカデミー賞主演男優賞(第52回)〔1979年〕「クレイマー、クレイマー」,アカデミー賞主演男優賞(第61回)〔1988年〕「レインマン」,オビー賞〔1966年〕「Journey of the Fifth Horse」,ゴールデン・グローブ賞新人賞(第25回,1967年度)「卒業」,ゴールデン・グローブ賞主演男優賞(第37回,1979年度)「クレイマー、クレイマー」,ゴールデン・グローブ賞主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門,第40回,1982年度)「トッツィー」,ドラマ・デスク賞〔1984年〕「セールスマンの死」,エミー賞〔1985年〕「セールスマンの死」,ゴールデン・グローブ賞男優賞(テレビミニシリーズ,第43回,1985年度)「セールスマンの死」,ゴールデン・グローブ賞主演男優賞(第46回,1988年度)「レインマン」,ベルリン国際映画祭金熊名誉賞(第39回)〔1989年〕,ベネチア国際映画祭特別功労賞(第53回)〔1996年〕,ゴールデン・グローブ賞セシル・B.デミル賞(第54回,1996年度),AFIライフ・アチーブメント賞〔1999年〕,アニー賞(声優賞,第36回)〔2009年〕「カンフー・パンダ」
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ジャック・ニコルソン(Jack Nicholson、1937年4月22日 - )は、アメリカ合衆国の俳優、プロデューサー、映画監督。ジャック・ニコルスンと表記される事もある。
デビューから今日に至るまで計12回のアカデミー賞ノミネート経験(主演8回、助演4回)と3回の受賞歴(主演2回、助演1回)を持つ。アカデミー賞に12回のノミネートは男優としては最多で、また1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代と各世代毎にノミネート経験を持つ俳優三人のうちの一人(残りの二人はマイケル・ケインとポール・ニューマン)でもある。ゴールデングローブ賞も計7回受賞し、1999年に功労賞を授与され、俳優として多くの俳優に多大なる影響を与えた。
引用元:ja.wikipedia.org(引用元へはこちらから)
米ニュージャージー州ネプチューン出身。17歳のときにカリフォルニアに引越し、MGMのアニメ部門で雑用係として働く。その後演技を学び、ロジャー・コーマン製作総指揮の「The Cry Baby Killer(原題)」(58)でスクリーンデビュー。以降、コーマン関連の作品に多数出演し、アカデミー助演男優賞に初ノミネートされた「イージー・ライダー」(69)でブレイクする。以後、脚本家や監督にも挑戦しながら、俳優としての評価を高め、「さらば冬のかもめ」(73)ではカンヌ国際映画祭の男優賞を受賞。75年の「カッコーの巣の上で」でアカデミー主演男優賞を受賞して以降、「愛と追憶の日々」(83)で同助演男優賞、「恋愛小説家」(97)で2度目の主演男優賞と、オスカーを3回手にした。ノミネート回数は12回にのぼる、米映画史に欠かせない名優である。その他の代表作は、「チャイナタウン」(74)、「シャイニング」(80)、「ア・フュー・グッドメン」(92)など。ティム・バートン版「バットマン」(89)では、悪役ジョーカーを怪演した。私生活では、女優アンジェリカ・ヒューストンとの長年の交際が有名。結婚は1度だけだが、元妻を含む4人の女性との間に5人の子どもがいる。
引用元:eiga.com(引用元へはこちらから)
■本名はJohn Joseph Nicholson。17歳で母、ジェーンとカリフォルニアに渡り、MGMに入社。動画部門などで働く。やがて演技の勉強を始め58年、“Cry Baby Killer”で映画デビュー。以後、ロジャー・コーマンの下で映画制作に参加。役者、脚本、製作者など映画に関するさまざまな仕事を学ぶ。69年、「イージー・ライダー」でアカデミー助演男優賞にノミネートされ注目され、現在まで主演、助演賞でノミネートされること合計11回。75年の「カッコーの巣の上で」と97年の「恋愛小説家」で主演男優賞受賞。83年、「愛と追憶の日々」で助演男優賞受賞と燦々たる成績を残す。61年、サンドラ・ナイトと結婚、一女をもうけるが5年後に離婚。その後ドミニク・サンダやアンジェリカ・ヒューストンとの交際が話題になり、レベッカ・ブルサールとの間に二児が生れるが破局に至っている。
引用元:www.allcinema.net(引用元へはこちらから)
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映画『プレッジ』(2002)予告編 ジャック・ニコルソン主演
映画『プレッジ』(2002) ジャック・ニコルソン主演 ════════════════ 映画『プレッジ』 劇場公開日:2002 ...
キャサリン・ロス(Katharine Ross, 本名:Katharine Juliet Ross, 1940年1月29日 - )は、アメリカ合衆国の女優。以前は1943年生まれになっていたが実際は1940年生まれである。
引用元:ja.wikipedia.org(引用元へはこちらから)
■12歳の時両親が離婚。母の元で育つ。大学を中退後、サンフランシスコのワークショップで役者兼裏方をしていた時にエドモンド・オブライエンに見出され、62年にTVデビューし活躍。映画デビューは65年の「シェナンドー河」。67年の「卒業」でエレイン役を演じてアカデミー助演賞にノミネートされ一躍注目を受ける。そして「明日に向って撃て!」の出演で“永遠の青春ヒロイン”の名を決定づけることに。その後76年に「さすらいの航海」でゴールデングローブ助演賞に選ばれるなどしたが、以降はB級作品やTVMがメインとなっている。84年、サム・エリオットと4度目の結婚をし、一児をもうけた。
引用元:www.allcinema.net(引用元へはこちらから)
カリフォルニア州ロサンゼル ス市内のハリウッド出身。父親は海軍大尉。12才の時、両親が離婚して母親に引き取られる。
サンタ・ローザ・カレッジを1年で中退して女優を志願する。サンフランシスコのアクターズ・ワークショップで裏 方として働きながら舞台に立っているのを俳優のエドモンダ・オブライエンに見出され、62年彼のテレビ・シリー ズ“Sam Benedict”に出演。
引用元:yurikoariki.web.fc2.com(引用元へはこちらから)
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『卒業』 The Graduate 予告編 Trailer 1967年
不滅の20世紀洋画・音楽集 original sound track』https://immortal-office-club.tokyo.jp/original.sound.track/ 『卒業』 The Graduate ...
ポール・ニューマン(Paul Newman, 1925年1月26日 - 2008年9月26日)は、アメリカ合衆国出身の俳優である。3度のアカデミー賞受賞を初めとして数多くの受賞歴を持つ。また食品製造会社「ニューマンズ・オウン」の設立者であり、1982年の設立以降挙げた純利益2億2千万ドルを全額寄付。その他政治運動家としても多くの功績を残した。1950年代以降半世紀以上にわたり第一線で活躍した俳優である。リベラル派で支持政党は民主党だった。
引用元:ja.wikipedia.org(引用元へはこちらから)
米オハイオ州クリーブランド出身。第2次世界大戦後、父の跡を継いで家業のスポーツ用品店を切り盛りするが、俳優の夢を諦められずイエール大学の演劇大学院に入学。その後ニューヨークでキャリアを開始し、1953年、ブロードウェイ作品の主演で注目を集める。「銀の盃」(55)で映画デビュー。初主演作「傷だらけの栄光」(56)に続く「長く熱い夜」(58)でカンヌ国際映画祭の男優賞を受賞した。アカデミー主演男優賞候補作「熱いトタン屋根の猫」(58)、「ハスラー」(61)、「暴力脱獄」(67)などでスターの地位を築き、「明日に向って撃て!」(69)や「スティング」(73)は大ヒットを記録した。6度目のオスカー候補となった「評決」(82)を経て、「ハスラー2」(86)で初のオスカーに輝く。「ノーバディーズ・フール」(94)でベルリン国際映画祭の銀熊賞受賞。俳優のほか監督にも挑戦しており、初監督作の「レーチェルレーチェル」(68)ではゴールデングローブ賞最優秀監督賞を受賞している。80年代以降、自身の経営する食品会社の利益の全額を不幸な子どもたちのために寄付するなど、経営者や社会活動家としての顔も持っていた。08年、肺がんのため83歳で逝去。
引用元:eiga.com(引用元へはこちらから)
名優ポール・ニューマン、映画史上最も愛された“碧い瞳”の反逆児/特集上映『テアトル・クラシックス ACT.2 名優ポール・ニューマン特集 ~碧い瞳の反逆児~』予告編
映画史上最も愛された “碧い瞳”の反逆児、タフで繊細、クールでチャーミング!世界が憧れたハリウッド伝説のスターに、この ...
スティング (1973) 「エンターテイナー」 ポール・ニューマン
映画音楽 : https://www.youtube.com/playlist?list=PLhCFlEaRDDRyfBBax94sEAj5zuo1ITbTR Paul Newman Robert Redford ...
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チャールズ・ロバート・レッドフォード・ジュニア(Charles Robert Redford Jr., 1936年8月18日 - )[1][2] は、カリフォルニア州サンタモニカ出身のアメリカ合衆国の俳優、映画監督、映画プロデューサー。サンダンス・インスティテュート(英語版)主宰。左利き。1970年代に、ハリウッド屈指の美男俳優として数多くの映画に出演。1980年、自身が監督した映画『普通の人々』でアカデミー監督賞を受賞、作品もアカデミー作品賞を受賞し、ハリウッドで初めて「演技と製作の双方で地位を確立した映画人」といわれた。リベラル派で支持政党は民主党。
引用元:ja.wikipedia.org(引用元へはこちらから)
米カリフォルニア州出身。コロラド大学を退学してヨーロッパを放浪した後に帰国。アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツで演技を学び、ブロードウェイで俳優として出発する。「戦場の追跡」(62・日本劇場未公開)で映画に初出演し、「明日に向って撃て!」(67)のサンダンス・キッド役でブレイク。「追憶」やアカデミー主演男優賞にノミネートされた「スティング」(ともに73)、「華麗なるギャツビー」(74)でスターの地位を確立。初監督作「普通の人々」(80)はアカデミー作品賞・監督賞を含む4部門を制した。その後も、「愛と哀しみの果て」(85)などで俳優として活躍する一方、「リバー・ランズ・スルー・イット」(92)などの監督作も発表。「クイズ・ショウ」(94)で再びアカデミー監督賞の候補となった。製作・主演を兼ねた「さらば愛しきアウトロー」(18)をもって俳優業を引退することを発表。サンダンス映画祭の主宰者としても知られる。
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■本名はCharles Robert Redford Jr.。コロラド大学を一年で中退。以後、絵画の勉強のためヨーロッパに渡り一年後に帰国。以後、舞台美術勉強の為、アメリカ演劇アカデミーに入学したが役者志願に転向。ブロードウェイの舞台に立つが全く売れずにいた。が、次第に注目されるようになり62年「戦場の追跡」で映画デビュー。以後、舞台、映画の世界で活躍するが人気を決定的にしたのは69年、「明日に向って撃て!」(この出演料でユタ州コロラドの山中に土地を買い、サンダンス・プロを設立。それが母体となりその後、サンダンス・インスティテュートが設立された)。以降、アメリカの代表的なスターとして活躍。80年、初の監督作品「普通の人々」でいきなりのアカデミー監督賞受賞。現在はスターとしてはもちろん映画監督としても活躍する。ヨーロッパ放浪時代に結婚し、58年以来のパートナーだったローラ夫人とは88年に離婚。四児がいる。
引用元:www.allcinema.net(引用元へはこちらから)
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